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インドの教育制度とは?

インドの教育業界は盛り上がりを見せており、今回は大まかな構造を捉えるためにも、どういう制度下で実態がどうなっているかについて記していきます。

目次

目次

  1. 就学前〜大学卒業までの流れ
  2. 公立学校と私立学校
  3. 一定の所得層のみが繰り広げる受験ゲーム
  4. 取り残される貧困層や農村部
  5. 今インドは何年先を見据えているのか?

就学前〜大学卒業までの流れ

義務教育は、若干の違いがあるものの基本的には5-3-2-2制となります。小学校や中学校という日本の表現を持ってすると少々説明が難しくなるので、現地の定義をもって説明していきます。

とその前に、当然就学前の施設として幼稚園の存在があることにも触れておきます。日本でいう保育園ではなく、幼稚園、つまり教育施設としてそれが存在します。

話を戻すと、インドの場合Gradeを数えていくことになり、これが義務教育を通じての学年の概念と一致します。さて、手前で触れた幼稚園にも下級と上級という学年区分がありますが、先ほどの5-3-2-2に合わせると5(初等教育)-3(前期中等教育)-2(後期中等教育)-2(高等教育)といった具合になります。その後、日本と同じように成績などに合わせて大学進学、場合によってはその後さらに大学院などの選択肢が出てきます。

これまた日本と同じように、これはあくまで一つの例であり、日本同様に異なるカテゴリーの学校に進み、手に職をつけるための学びを得たりといった進路も存在します。

公立学校と私立学校

インドにおいても学校は公立と私立が存在します。そして、学校というのはそれぞれの州政府の直轄下にある構造となっています。そこは何となく、日本でいう文部科学省ー教育委員会ー学校という行政系統をイメージすると、それが地方に分権されているのか〜くらいには解釈できるかと思います。

とは言え、この義務教育制度自体、ことインドにおいては歴史も浅くまだ10年そこらの運営実績”しか”ありません。だからこそ、本来的な意味の公教育においてはまだまだ山のように課題が存在するのです。さて、今まで触れた幼稚園から大学まで全てにおいて公立と私立は存在します。しかしながら、歴史が浅いからこそ必ずしもそれぞれの学年の公立校がすべての地域で十分な数と質をもって存在しているとは言えません。

とは言え、日本の感覚で公立と私立を捉えると実態が見えてきません。なぜなら、ここに所得層やカーストの概念を持ち込むとまるで異なってくるからです。最も簡単に言えば、公立は貧困層やアウトカーストのためにある学校であり、私立は中流階級以上のためにある学校だからです。日本でももちろん所得差によってそのいく先が決まることもありますが、必ずしもそうではありません。しかしながらインドは明確に違います。中流階級以上の家庭が公立校に行かせることはまずなく、その逆も然りなのです。さらに言えば、いわゆる富裕層はほとんどの場合、インドに子女を置かず、イギリスやアメリカに早期から留学させることが多くあります。

これには2つの理由があります。1つは言うまでもなく、カースト的、階層的考え故に同じ輪に入ることを好まないと言うもの。そしてもう一つは根本的な教育内容の差です。そしてこの内容の差が、極めて大きいが故にここにもまた負のスパイラルの根源が存在しているわけです。例にとってみると、英語教育。多くが英語を話すインド人ですが、そうはいっても私立は初等教育や中には幼稚園から英語教育をするというのが“当たり前“にあります。一方で公立は、基本的にはヒンディー語とその州の言語、はたまたその州の言語のみ、といった具合に大きく異なります。

一定の所得層のみが繰り広げる受験ゲーム

近年、インド人の才能を評価して世界的に活躍している企業、そして人が増えてきています。事実、世界的な大企業のトップをインド人が担うこともあれば、IT業界で活躍するインド人が急増している実態もあります。日本でもメルカリを中心にインド人採用を積極的に行い、界隈で名を馳せています。

「インド人のエンジニアは優秀」「インド人は数学に強い」巷でよく聞くフレーズのうちの一つかも知れません。ただこういった触れ込みは、半分事実で半分嘘、いや、半分以上が嘘だと思っておいた方が実態には近いかも知れません。

その反面、IT産業というカースト時代になかった世界での人生一発逆転を狙い、インドの最難関大学や大学院、英米の有名大学への切符を掴むために血反吐が出るまで勉強する努力ができる人たちが多いというのもまた事実ではあります。そんなインドの最難関大学は通称IITと呼ばれ、インド工科大学の略称です。もちろんキャンパスによって差はあるものの、倍率は50倍にも60倍にもなり、世界の大学ランキングにおいても年々のその順位を高めています。ちなみに、お馴染みGoogle先生のCEOであるサンダー•ピチャイ氏も元ソフトバンクのニケシュ•アローラ氏などもみなそこの卒業生です。

一部の(海外大を前提にした)富裕層と極度の貧困層を除けば、多くがそこをゴールに教育熱を注ぎ続けるのです。そこには、早くは幼稚園から熾烈な受験戦争と揶揄されるゲームが存在しています。

取り残される貧困層や農村部

ただ、本当にこうしたゲームはまだまだ違う世界の出来事でしかないと思えるくらいに、経済的な理由もしくは地理的な理由でまともに教育機会を得られない子どもたちが多くいます。

公立学校の課題について、もう少し触れておきます。前述の通り、数と質が十分ではないと言いましたが、数は説明不要。では質が十分ではないとはどういうことかというと、教えるカリキュラムもさることながら、まともに教えることができる教職員が足りない(いない)といったことから、設備や環境全般においても十分と言えるものがないのです。

州の政府も連邦政府も十分に教育の大事さを理解しているとは思いますし、現にそれを方針としても表面上は打ち出していますが、彼ら彼女らの子女もまた私立に通うことがほとんどなのです。2017年にはアウトカースト出身のコビンド氏が大統領に選出され、根深い文化的負の遺産に対しての変革も多少の期待はされましたが、大きく変わっている様子は現在のところありません。それどころか、インド与党のインド人民党(BJP)は他宗教の弾圧とも取れる動きや少数派を虐げる政治ゲームを繰り広げている状態です。

そうした情勢下では、当然まだまだ未発達な部分も多く、いわゆる公教育が整備されるまでには様々なハードルを乗り越えていかなければ根本的な改善は期待できないというのが実情です。

今インドは何年先を見据えているのか?

人口が世界一となり、その経済力も2030年には日本を、2050年にはアメリカをも抜くとされています。それはそれでとても素晴らしいですし、ビジネスをする人にとっては魅力的な市場です。

インド政府も世界での存在感を徐々に増し、いかにもな外交で上手く世界との距離を調整しながら自国のプレゼンスを確実に上げています。ただし、人口大国には人口ボーナスがある一方で、当然ながら負の側面もあります。現に、国内での所得格差含むあらゆる格差が拡大しています。

そんな中で、モディ政権は経済成長による貧困解消や社会課題の解消を目指そうとしています。経済を成長させること、循環させることは国家運営の基本のキです。ただし、集中化する富を再分配する仕組みや社会保障、未来のための教育などはあまりにも遅れており、お世辞にも“みんなのため”という精神は見られません。

一年之計、莫如樹穀。十年之計、莫如樹木。終身之計、莫如樹人。

管子より

相当擦られた一節ですが、ようは『人を育てることが未来を作ること』なんですがこの解釈がどうも国によっては都合のいいように捉えられているように感じてなりません。かく言う日本もですし、編纂された中国でも…そしてもちろんインドでもです。

1000万人が国の経済を牽引し支えていれば、未来の経済は安泰だから1億人の貧困層はそのままでもいい。少なくとも国家百年の計は、そうは言ってないと思います。

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