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貧困という言葉

今回はHito HR Consultingが調査対象として受けることも多い貧困層に焦点を当てます。ただの貧しい人ではなく、実際にあたりまえに物を買い、スマートフォンを持っていたり二輪を持参していたりする方もいる中で日系企業のインド展開において外すことができない層でしょう。

我々は日々、現地での様々な支援を通じてミッションの達成に向け活動しています。そんな活動の対象になるのが貧困層と呼ばれる人たちです。

ただ、貧困層という呼称はわりと抽象的で、なかなかその実態については知られていないことも多いです。よくよく、貧困は連鎖が起こると言われていますが、その連鎖が起こる理由は根本の課題みたいなものも同様で、これらを少し個人的な思想も含めてご紹介したいと思います。

目次

目次

  1. 貧困の定義とは?
  2. インドの概況
  3. 貧困と幸福

貧困の定義とは?

一般的に、貧困というと絶対的貧困と相対的貧困という言葉で分類されます。前者は言葉の通り、絶対値を基準にしたときにそれを下回る人たちに対して使われます。かつては1.25ドル/日という基準が一般的でしたが、今はSDGsの動きと共に1.9ドル/日を一つの基準とするものや、最も一般的なものとして世界銀行が設定する2.15ドル/日が基準となっています。一方の相対的貧困は、ある地域において大多数と比較した場合に貧困とみなされるケースです。一般には10%未満のレンジに入る所得層に対して用いられます。

と、ここまではググれば必ずヒットするようなものです。そして、見ればわかる通り、この貧困という言葉は収入/所得などといった金銭的側面に対して使われていることが分かります。もちろん、支援をすることや統計を取ること、そうした時には何をもってしても定量化することが必要ですのでこれ自体に何か異論があるわけではありません。

ただし、貧困というのはその対象や事象を考えると必ずしもこの金銭的側面が全てではありません。そこで、この貧困を経済的貧困と文化的貧困とさらに分けてみます。経済的貧困は前述に代替されるため、後者の文化的貧困について触れておきたいと思います。

文化的貧困とは、これもまた厳密な定義は曖昧ですが、一般的には家庭内で形成される養育や生活環境、習慣などにかかる貧困です。

例えば、貧困地域と叫ばれるようなエリアでは、子どもを労働力として考えているケースも少なくはありません。1日2ドルほどで生活する家庭の場合、仕事というのは概ね似たような職に収斂されます。このとき、必ずしも普通成人男性ができるような肉体労働に限らず、未成年はたまた幼児に近い年齢であっても出来るような単純労働もあります。とある家庭に子どもが2人いたとします。子どもが7歳と13歳だとすると、日本の感覚で言えば「小学生と中学生」という表現でほとんどは異論がないと思います。しかしながら、このケースでは「学ぶ時間があるならば1セントでも多く稼ぐ」という親の意向を強いられる現象が起きてしまいます。当然、親も同様に教育を受けていないケースがほとんどのため、学ぶことの意義などは分かり得ないのです。

こうした環境に育つことで、その子どもたちは必然的に経済的貧困を引き継ぐこととなり、また、文化的貧困ということに気づくこともなく搾取されたり、時には自ら生きるために法を犯すこともあるのです。

インドの概況

インドの人口は右肩上がりに伸び、2023年現在では14.2億人を超えるとされています。データでは2022年までですが、今時点でも14.17億人が記録されています。そのうち、広大なインドにおいては、都市部と農村部に分けられており、直近ではおおよそ36%:64%とかつてに比べれば都市部の人口が増加したものの、それでも未だに圧倒的に農村部への人口が多い状況です。

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世界銀行のデータをもとに結び手事務局が作成

貧困についても見てみると、National poverty linesとされる国が決める貧困ラインは2004年~2011年の3地点においては発表されているものの、それ以降は明確に発表はされておりません。ここでは、2.15ドル/日を切る人口の割合を見ていきます。

人口増に対して、比率としては右肩下がりになっているのが分かります。2020年には新型コロナウイルスの影響もあり、一時浮上するような動きを取っていますが、また徐々に減少トレンドに動いています。最も最近のデータとしては、11.9%となっています。とはいえ、10%を超えており、実数にして167,500,097。目を疑いたくなりますが、1億6千万人以上が貧困ラインに達しており、それは日本の人口を軽く超える人口になります。

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世界銀行のデータをもとに結び手事務局が作成

貧困と幸福

2009年にはスティグリッツ報告書という調査結果報告が、当時のサルコジ仏大統領の要請により出されました。端的に言えば、経済成長とその暮らしの質≒幸福度を測ろうというものです。そのほかにも収入と幸福度を測るものも海外ではよく見られます。2010年の有名なプリンストン大学の研究では、年間7.5万ドル(約1,100万円)の年収が一つの頭打ちの基準とも言われました。それにしても、この発表時のレートが今とはまるで異なっていたので、当時は年収800万円が幸福度のピークと報じられていました。円安恐るべしです…

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引用:High Income Improves Evaluation of Life But Not Emotional Well-Being /
Daniel Kahneman Angus Deaton 
September 2010 Proceedings of the National Academy of Sciences 107(38):16489-93

これに限らず、内閣府の調査でも収入と幸福度が無制限に比例するわけではなく、徐々に横ばいとなっていく類似の傾向が見られています。

これには恐らく一人一人の意見が異なって現れると思いますし、幸せの尺度”こそ”千差万別だろうと思います。なぜこの話をするかというと、「では、貧困層というのは支援が必要なのか?不幸せなのか?」という疑問に誰しもがぶち当たるからです。そして、その答えは大半の場合NOだからです。実際に、何も知らないからこそ、比較対象がないからこそ、その中での生活におおむね満足しているケースも少なくはありませんありません。

ただし、不幸せではないが幸せとも明確に感じてはいない、また、平均的なそれと比べた時にはその質がまるで異なることも事実です。「3日連続うどんだから…」という小さな不幸せもあるかもしれないですが、「今日もパン」という選択肢しかなく、ひどい場合には「今日は抜き」を意思に反して強いられることもあります。「第一志望の高校に落ちて、隣町の公立に行かなきゃいけない」という小さな不幸せもあるかもしれないですが、「50km先にしか学校はない」「学校に行かせてもらえない」もあります。つまりは、そもそもの選択肢がなく、ありとあらゆる事柄に対して比較検討の対象がないのです。

この狭間を抜け出し、ほんの少しわがままなことを考えてみる、勉強が嫌だと言ってみる、何組の誰々が気になる、将来は消防士になる、読書にふける、そんな選択肢を一つでも増やすきっかけになるのが広い意味での教育です。そして、その根幹となる基礎教育と子どもたちを取り巻く社会の不安要素や様々な課題を無くしていくことは、迷いのない必要不可欠なことなのだと思います。

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