今さらな話をします。が、やはりこれが今なお続く負の連鎖の一因であることも事実なので、誰もが一度は耳にしたことのあるカースト制度についてご紹介します。
中学校や高校のときに、社会科系の教科で一度は通った方がほとんどだと思いますが、多くの場合「インドの身分制度」ということくらいで、それ以上のことはあまり知らない方が多いのではないでしょうか。何なら実はカーストという呼称さえも厳密に異なったものがあることも知られていないかも知れません。ここを2歩、3歩踏み込むと現代の課題と紐づけること、イメージすることが容易になることだろうと思います。
目次
- カースト制度とは?
- カースト制度の起源とは?
- カースト制度にメリットはあったのか?
- 実態としてのカーストが今なお残る理由
カースト制度とは?
とはいえ、手前で触れた身分制度という大枠としての捉え方は決して間違ってはいません。ただし、このカーストというのは総称もしくは通称に近いものであり、実は2つに分解されます。
それが、ヴァルナとジャーティです。一般的に認識されているカーストは、ヴァルナを意味することがほとんどです。つまり、このヴァルナとは身分であり階級の違いを示すものであり、教科書にも書いてあるようなバラモン/クシャトリア/ヴァイシャ/シュードラです。さらに、ダリットと呼ばれる最下級層(=不可触民)がいるピラミッド構造となっております。
日本史的にいえば士農工商だと言われたりもしますが、厳密にいえばヴァルナは士農工商と異なり職業大別をもとにしたものではないです。教科書においても、一般的にも、バラモン(=司祭)、クシャトリア(=武士)、ヴァイシャ(=商人)、シュードラ(=奴隷)と記されることが多いですが、もう少し階級観点で、バラモン(=司祭)、クシャトリア(=貴族)、ヴァイシャ(=庶民)、シュードラ(=奴隷)と捉える方が実態には則しています。ゆえに、バラモン〜シュードラが、アーリア人(=インドに侵攻してきて住み着いたヨーロッパ系の民族)であり、シュードラが本来のインド人というか先住民となるわけです。
では、ジャーティが何か?ですが、このジャーティこそが職業を細分化した制度なのです。例を挙げるのであれば、市川家と中村家は歌舞伎という芸能を、鳩山家と麻生家は政治を、豊田家は製造業を…といった具合に世襲制となっているわけです。つまり、身分階級がピラミッドに分かれており、その階級の中に、Aという仕事、Bという仕事というところまでが決められた制度というのがカースト制度の大枠となります。
カースト制度の起源とは?
具体的には不明ではあるものの、紀元前にまで遡ると言われており、おおよそ3000年前にあたる紀元前1000年~600年あたりに、アーリア人が南アジア、今のインド一帯に移ってきたことから始まるとされています。もちろんこのあたりの歴史や概念は様々な学説もあるため何が正かを論ずるつもりはないですが、とにかくそのような歴史観というところだけ理解いただければ十分かもしれません。つまり、ずいぶんと前に移ってきた移民が、肌の色などをベースに身分を分け、それが定着されたものを15世紀にポルトガル人がこのヴァルナとジャーティを一緒にしてカーストと呼んだといったような大まかな流れになります。
身分制度が認識され始め、何千年もその状態を保ってきたわけですから良くも悪くも歴史ある制度であることには違いありません。しかしながら、近代に入るとこうしたある種の文化的制度も人権的な見方などから廃止の動きになり、これもまた教科書にも出てくる事項ですが、1950年には憲法において差別用語の使用禁止やカースト制度そのものの廃止が定められました。
国として禁止したといっても、実態がそうかというと異なってくるがゆえに一つの課題として残り続けているのです。その理由については後述するとして、まずはカースト制そのものを多面的に見てみるとします。
カースト制度にメリットはあったのか?
当然のことながら、身分制度・階級制度の類はインドの外を出ても世界的に見られたものですし、今なお日本でさえ「スクールカースト」たるカーストは存在しますし、目に見えない階級や身分の違いがあるのも事実です。
インドのそれは奴隷階級や不可触民という人を人とすら見ていない概念が存在したので、決して良いものではないというのが見方です。実際にインド人当人もあれは間違った考え方だという人と多く会いました。
その一方で、とりわけヴァイシャ以下の下位カーストにとってみれば、ジャーティによって職が保障されていたという見方もあり、その点については社会保障的な観点では良策であったという意見もあります。実際、職を取り合う必要もなければ、単純労働ほど取り合いになることが収入の不安定を生む原因にもなっていたので、ある側面では機能していたのかもしれません。
ただ、こうした背景故に、現代では逆に下位カーストを優遇するような施策が多く取られています。こうなるとこのカーストの遺産がとてつもなく複雑になってきます。ピラミッド構造ゆえ、数の観点では下位になればなるほど人口も増えていきます。ダリットと呼ばれるかつて不可触民とされた人たちだけでも2億にいるとも言われています。
そうするとこの数は往々にして政治の道具や手段と化してしまいます。実際、ヴァルナにおいて最上位のバラモンとされる人(苗字)にとっては大学や公務員の職に就くことが難しく、下位カーストを優先的に入学させる、就職させることがどの州でも行われています。貧富の差の解消が目的であるとは言え、歴史的背景という事実だけを背負っている上位カーストからしてみれば逆差別と感じるのも無理はありません。
例えば仮にこのヴァルナに沿った形で富に傾斜がかかっていればまだしも、今となっては多くが中間層故に決してかつての上位カーストが恵まれているわけでもないのです。
実態としてのカーストが今なお残る理由
インドに限った話ではなく、世界的に見て、都市部と地方の関係は似たものが多いです。情報化社会が進み、誰でも簡単に情報にアクセスでき、政治が発展してそれぞれの州ごとの政治と連邦政府が機能するようなアメリカの様な国も出てきているわけです。にもかかわらず、地方というのは情報を筆頭に、様々なものが行き届かないことが往々にしてあります。
インドにおいてはそれが顕著に表れているため、倫理的な観点でも都市部のそれとは大きな乖離があります。そうなると、過去の、もしくは良いように言えば伝統とされるものは継承されることが多く、その一つがカースト制度であります。そのほかにも、宗教的なイベントだが現代の社会にそぐわないものや身分をベースにしたお見合い結婚なども地方に行けば行くほど色濃く残っています。これはまさに、地方と都市部で起こりがちな格差の話であるため、中心地でもなお同じことが行われているかというとそうではないという回答になります。
ではそれだけが理由か?というと、負のスパイラルを生む構造的な課題が他にもあることを認識しておかなければなりません。それは、ジャーティにより定められた職が低賃金のそれである場合に何が起こるかという観点です。例えば医者家系では起こらないが、掃除屋や大工、期間工などの職種に見られる傾向があるということです。
以前の生活実態調査でも触れましたが、地域という観点だけでも驚くほどの賃金格差があるのに、職種という観点で言えば、安定性の違いや賃金の乖離というのはさらに大きく、稼ぐ人は億単位で稼ぐ職もあれば、一年で10万、20万と極めて低い収入のものもあるからです。
ここまでの格差が生じると、所得の低い職にあたる家系は職を変えるに必要な教育を自分自身が受ける余裕もなければ、子どもに受けさせることもままなりません。結果的にその子どもにとっても、教育を十分に受けられる機会がなく、親のやってきた職種を引き継ぐということが現実的な選択肢になるわけです。
実際、現代においても貧困層は今自分たちがついている仕事に特に大きく疑問を抱いていることもなければ、むしろそれらが守られているからいいとさえ考えています。その考えが根底にあると、自分たちの子どもたちに対して教育を十分に受けさせるという考えが出てきづらいことも理解できるに至ります。
教育が十分でないからこそ、知識も乏しければ妥当かどうかを判断するための思考も十分にできません。情報も偏りがあるからこそ、それ以外のたくさんの選択肢があることや教育を受けることによって得られるリターンが何なのかを知る由もありません。これは何も彼ら彼女らに責任があるのではなく、そういう構造に落とし込んだ側に責任があると思います。
何もカースト制度だけが全ての諸悪の根源ではありません。それでも、こうしたことが生む負のスパイラルを歴史から学ぶことはこの先の悪手が何かを冷静に判断する材料にはなるはずです。
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